アントニオ猪木から考えるマーケティングポジション
業界1位になるためのストロングスタイルと異種格闘技戦ポジション
今日は4月4日。19年前の1998年4月4日にプロレスラーのアントニオ猪木が引退しました。
猪木がモハメド・アリとの異種格闘技戦が行った1976年にスポットを当てた
「1976年のアントニオ猪木(著:柳澤健)」を読むと、猪木がいかに業界1位になって
自分自身を高く売るのかを考えて戦ってきたことがわかります。
猪木の戦略はそのまま企業の生き残り戦略と重なるので今回はこの本をご紹介します。
業界1位のジャイアント馬場と同じポジションに立てないからこそのストロングスタイル
猪木が自身の団体「新日本プロレス」を旗揚げしたのは1972年。
同じ年にライバルのジャイアント馬場も「全日本プロレス」を旗揚げ。
業界1位を守るためジャイアント馬場は
海外のプロレス団体とのコネを使い、海外の一流レスラーを抑えた。
海外の一流レスラーと戦える馬場は一流、戦えない猪木は二流としたかった。
猪木は、馬場と同じポジショニングには立てないので、
当時インドの二流レスラーであったタイガージェットシンと名勝負を繰り広げたり、
馬場がやらない日本人レスラー対決のポジションで人気を集める。
プロレス以外の権威をつけるための金メダリストやボクシングチャンピオンとの異種格闘技戦
そして馬場は当時のプロレス内の頂点であるアメリカの団体
「NWA」のチャンピオンとなることで猪木との違いを見せ、
業界1位のポジションを守ろうとする。
NWAのチャンピオンにはなりたくてもなれない猪木は、
「キング・オブ・スポーツ」をテーマに他の格闘技のチャンピオンと1976年に闘いはじめる。
1976年の2月には柔道の金メダリスト・ルスカ戦。
同年6月にはモハメッド・アリ戦を行う。
相手のポジションでは負けるので自分のポジションで勝負したアリ戦
ポジションを変えて闘うのは対馬場だけではなく、
異種格闘技戦でも同様で、立ち技ではアリに勝てないので、
猪木は勝機が高い寝技に持ち込むべく終始寝っ転がって引き分けとなる。
本を読むといかに猪木は自分が勝てるポジションを考え、選び、闘ってきたかがわかります。
ライバルのポジションとは違うポジションで闘い勝つ。
プロレスラーも企業も戦法は同じですね。